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古代


紀 元前43年にシーザーの副将軍プランクスはリヨンのフルビエールの丘にルグドゥヌム( リヨンのラテン名・ローマ市民の植民都市)を建設しました。ローマ帝国がゴール(昔のフランス)に侵入し、ゴールは3つの地方に分割されました。ルグドゥ ヌムはイタリア、南ゴール(ナルボーネズ地方)、ブルターニュ地方、アキテーヌ地方の丁度交差点に位置し、東西南北に行く道への起点で、紀元前27年には リヨンは3つのゴールの政治、経済、軍隊、宗教などの首都になっていました。


西暦1年には、ルグドゥヌムはローマ帝国で2番目に大きな都会になり、ローマ皇帝もよく滞在していました。二人のローマ皇帝(クラウディウス皇帝とカラカ ラ皇帝)はルグドゥヌムで生まれています。古代ローマ時代には水路が4つ建設されました。ルグドゥヌムに4つの水路あることからもルグドゥヌムが重要な街 だったということが分かります。


196年に、皇帝の地位をめぐってアルビヌスとセプティミウス・セウェルスの政治紛争がありました。ルグドゥヌムはアルビヌスを応援しましたが、セウェル スが勝利し、ルグドゥヌムは略奪破壊されてしまいます。その時から、南仏のアルルがルグドゥヌムより重要な街になっていきます。


ルグドゥヌムには早い時期からキリスト教徒がやってきていました。西暦177年にゴールで最初のキリスト教徒への弾圧(殉教者50名)が行われています。 その後、西暦4世紀からルグドゥヌム市民はフルビエールの丘からソーヌ川岸へと移住していきます。ローマ帝国が滅亡した後、つまり5世紀からはキリスト教 がこの町に強い影響を与えました。教会が建設され、町の有力者は大司教でした。


中世


4世紀初頭から9世紀にかけて、ペスト、侵略、火事、洪水、戦争などのために、ルグドゥヌムは衰退していきます。843年にヴェルダン条約により、フラン ク王国は三分割され、後のフランス、ドイツ、イタリアの骨格をつくる事になります。リヨンはけして大きな町ではありませんでしたが、11世紀から宗教色の 強い町になります。14世紀の終わりごろに、100年戦争が起こり、リヨンはフランス国王を応援したため、シャルル7世は年に2回自由市の特権をリヨンに 与えました。1444年にはさらに1回を追加して、年に3回、自由市が開催され、1463年ルイ11世は年に4回の自由市を許可しました。


15世紀からナ ポレオンまで


15世紀の終わりから16世紀の始めにイタリア戦争が起こり、フランス 国王はリヨンにたびたび滞在しました。16世紀にフランス国王(特にフランスワ1 世)はリヨンが外国人(イタリア人、ドイツ人等)の居住地になるように力を入れました。リヨンは免除の街になりました。自由市のお陰で多くのフィレンツェ 出身の銀行家や商人がリヨンにやってきました。リヨンはフランス王国一の金持ちの街であり、一番人口の多い街になりました。その頃から、リヨンはヨーロッ パに広く知れわたり経済的に発展しました。絹織物や本の印刷が栄えました(15世紀の終わりにリヨンで最初のフランス語の本が印刷されます)。1506年 にイタリア人によって、フランス最初の証券取引所が創立されました。リヨンに移住した外国人のお陰で、リヨンはフランスのどの地方よりも早くイタリアの繁 栄の影響を受けました。金持ちになったイタリア人やドイツ人などによって当時イタリアで流行していたルネサンス様式の堂々とした建物が建てられました。


1572年に、宗教戦争がはじまり、酷いサン・バルテルミーの虐殺がおこります。リヨンは分裂してしまいますが、17世紀は平穏で繁栄した時期でした。
1658年にルイ14世がリヨンに来て景気が回復しました。新しい川岸、街灯、消防署が建設され、劇場、市民病院、両替所は修復されました。道路整備が始 まり、道に名前のプレートが設置され、ローヌ川左岸の方へと町が拡張しました。この時代に モリエールルソー、ヴォルテール、ラシーヌ、モーツアルトがリヨンを訪れ文学や音楽も栄えていました。


フロンド(1648〜1653年:マザラン政府に対する貴族と民衆の反乱)の時、リヨンは王に忠誠を誓ったので、王から与えられた贈物で綺麗な建物(市役 所など)がたくさん建てられました。17世紀の終わりごろから、絹織物はリヨン経済の中心となり、商売と銀行の仕事は外国人(特にスイス人)に任せられま した。


18世紀も平穏で繁栄の世紀でした。建築家スフロは多くの豪華な建物を建設しました。1784年にブロトー地区でのモンゴルフィエールの気球のテストやア ンペールによって電気が発明されました。またヨーロッパ最初の獣医学の学校もオープンしました。


1793年、フランス革命の時に、リヨンは国民公会に反対して、王を応援しました。そのため、リヨンは国民公会の軍隊に2ヶ月間包囲されて、国民公会のリ ヨンへの弾圧はひどく、1793年10月12日に政令は 「リヨンは国民の自由の敵だった。リヨンは存在の権利を失った!」 と述べましたし、リヨンは「無法な都市」と呼ばれました。2000人ぐらいがギロチンにかけられ、ベルクール広場の周りの豪華な家は取り壊されてしまし た。


ナポレオンが即位した時リヨンの市民は安心し、治安は回復します。ナポレオンは何回かリヨンを訪れており、最後に来た時には 「リヨンの人、あなた達を私は愛しています」 と言っています。


19世紀から現 在まで


1820年から1850年まで、リヨン、サンテティエン地方は産業的にフランスで一番強い地方でした。1824年にフランス最初の列車線路はこの地方に設 置されています。第2帝政時に、反乱を監視するために、大通り(President Herriot通り、Republique通り)が建設されました。オペラ座、裁判所、証券取引所、テット・ドール公園も建設されました。


産業革命時代リヨンは絹織物産業の大都市でした。19世紀半ば頃に民衆階級間の争い(特にカニューの反乱、カニューは絹を織る労働者のことです)が始まり ました。


1870年の戦争と第1次世界大戦の間に化学と車メーカーが経済的に絹織物より大きくなっていきました。大学、ローヌ県庁、フルビエール大聖堂が建設さ れ、1895年にリュミエール兄弟がリヨンで世界最初の映画を撮影し、リヨンは映画発明の都市になりました。1910年からは電気が使われ始めます。第2 次世界大戦にレジスタンス(ドイツ占領軍に対する抵抗運動および組織)の中心地になりました。1943年6月23日にレジスタンス運動家 ジョン・ムランはゲシュタポに捕らえられます。1944年5月26日にリヨンはアメリカ空軍に空爆されました。


1960年からリヨンの人口はどんどん増えてきました。郊外に公団住宅、パール・ディユー地区に新しいビジネス街、フルビエールの丘の下に長いトンネル、 地下鉄が建設されました。新しい国際空港が1975年にオープンしました。今現在、リヨンは国際会議、石油化学、医学や薬品、機械産業、車メーカー、電 気、電子、紙、サービス業、食品工業、銀行、織物産業、テクスタイルのデザイン、大学、国際ガン研究センターなどで栄えています。











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